時代と共に変わる自然と森林

時代と共に変わる自然と森林

 

古代には日本にも強大な権力が発生し、権力を象徴する巨大な建築物が作られるようになりました。平城京や平安京などの都が作られましたが、そこには豪華絢爛たる寺社が多数建築されました。それには、大量の建築材料が必要になります。京都奥地の山にヒノキの自生地がありますが、その付近の大径木はほとんどが寺社の建立のために伐採されつくされたと言われます。そこで、京都の近くに、吉野林業のような日本独自の造林技術が発達したと言います。戦国時代にも、巨大がお城を建てるのに大量の材木が必要になり、昔と同様の山林の伐採が行われました。

時代が変わって、江戸時代の山陰地方では、武器や農具を作る材料となる鉄の生産のために、鑪(たたら)製鉄が行われました。鉄分を含む風化した花崗岩を樋に流して比重差を利用して、鉄の選鉱を行うのです。その鉄分を溶鉱炉で溶かして刀剣や農具を作るのですが、そのための大量の木材を燃やして鉄を溶かしました。周囲の山の森林はことごとく伐採され、山が丸裸にされたと言います。鑪製鉄に伴い、山からの土砂の流出が激しくなり、鉱毒による作物被害が生じ、田んぼ土砂で埋まる被害が多発しました。そのため農民たちと製鉄業者たちとの争いが頻発し、一時は江戸訴訟にまで発展したことが知られています。今でいう公害裁判です。

同じ江戸時代の瀬戸内海沿岸では、塩の生産のために干拓地にたくさんの塩田が作られました。当時、塩は貴重品であったのです。干拓した低地に海水を入れ、藻に付着させた塩分を焼いて塩を取り出すのですね。焼いて製塩するために、周辺の山の木材が伐採され、燃料にされました。そのため山が丸裸になったと言います。当然、土砂災害が頻発して農民が苦しめられました。瀬戸内海沿岸での製塩の中心は赤穂藩でした。今でも新幹線で中国地方を旅すると、貧弱な森しか生育しない山が多いことに気づきます。現在にまで影響しているのです。一方、愛知県西尾近くの吉良藩も干拓地に塩田があり製塩が盛んにおこなわれ、矢作川の舟運を利用して信州などの山奥に塩を売って儲けていました。この地域の山も同様に、森林が伐採されたと思われます。赤穂浪士の討ち入りというのは、幕府の塩にかかる許認可の関する利権の両藩の争いがその原因なのです。

丸裸になった山には、自然に乾燥に強いアカマツが生えます。貧栄養の土壌でも、水分の少ないところでも育つアカマツは、荒れた山の代名詞のようになりました。荒れた山に広がる松林の松は、大部分がアカマツです。昔の村絵図や屏風絵などに描かれる山の風景画には、枝ぶりの良い松の絵が描かれていますが、それはかつての里山が荒れていたことを物語っています。そのような目で今の雑木林を見ると、松林が非常に多いことに気づきます。かつての荒れた松山の名残でしょう。

 昔は日本でも松茸(マツタケ)がたくさん採れたと言います。今では高級食材で、我々庶民の口にはなかなか入らなくなりました。今は中国産が大部分と聞きます。それは、日本の山では「落ち葉掻き」が絶えず行われていて、山は貧栄養の土壌になっていたためと言われます。昔の山にはアカマツの森が広がっており、その土壌が貧栄養であったために松茸がたくさん生えていたのですね。

このようにある地方では、産業のために山の樹木が伐採されるという時代もありましたが、それは限られた時代と地方の話で、全国的に森林の様相が変わってしまうことはありませんでした。しかし、あの太平洋戦争とその戦後は違いました。

 

戦後の住宅難と拡大造林の時代

 

戦争中は、国を挙げての戦争政策のために、軍事のために優先的に石油・石炭などの燃料が使われたので、民間の燃料が不足し、人々は山の樹木を伐採して薪にしました。それは全国に及びました。そのため、山が丸裸にされました。都市住民は、盗むようにして近隣の山に入って薪(たきぎ)を集めたと言います。農民はそれを売って生計の足しにしたとも聞いています。

戦後は、大部分の家屋が空襲で焼かれたために住宅が不足し、人々は住宅難に陥りました。それを解決するために、時の政府・大蔵省は、スギやヒノキなどの建築材料を増産するために、多額の補助金を付けるという仕方で全国的に造林を推し進めました。その政策を「拡大造林」政策と言います。1950年代の後半から60年代に全国的に、雑木林を伐採して金のなるスギ・ヒノキが植えられていきました。寒冷な信州や北海道地方ではカラマツが植えられました。

貧しい農民は、将来高値で売れるスギ・ヒノキに夢を託して、造林していきました。今、急峻な山の斜面に見事な美林が広がっているのを見ますが、こんな急斜面に植林したことに驚きを感じます。それは当時の農民の献身的な努力の結果でした。比較的裕福な農民は、補助金よりも雑木林の価値のある樹木を採るために雑木林を残しました。ですから、貧しい村ほど造林が広く行われ、人工林の面積率が高くなっています。ボクらの住んでいる作手村は貧しかったので人工林の面積率が高く、80数%にもなります。それに対して、岡崎は比較的裕福な地域でしたので、今でも雑木林の面積が広くなっています。

これは、全国的に行われた政策ですので、大規模な自然環境、とくに森林環境の変化をもたらしました。従来の里山の雑木林はどんどん伐採されて少なくなり、スギ・ヒノキの常緑針葉樹の森が広がっていったのです。現在はどこの山を見ても、人工林が多くてその中に雑木林がわずかに残っているといった風景が広がっています。一時代前の里山の疎林とは比べものにならないほどの変化です。

日本の造林方法は、スギやヒノキの苗を約12m間隔に密植し、ほぼ10年ごとに間伐し、成熟した材木を建材として売り出すのです。ところが、70年代に入り輸入の自由化が始まり、安い外国産の材木が入るようになって、日本産の木材は売れなくなりました。間伐する手間をかけられずに人工林が放置されているのが現状です。間伐材も、丸管を使った足場が普及して、建築現場では間伐材の丸太が使われなくなったことも大きく影響しています。間伐がなされず放置された人工林は、林床が暗くなって下生えも生えず、土壌の栄養不足でひょろひょろの木になってしまい、丸太にしても使い物にならないのですね。そのような森は根が十分に張らないため、大雨の時に斜面が崩れた土砂災害を引き起こすのです。そのような放置された人工林が至る所に広がっていることが防災上も大きな問題になっています。

スギは植えてから4050年くらい成長させて伐採し建材として販売するのが普通です。ヒノキは6080年くらいが伐期だと言われています。スギの方が、ヒノキに比べて成長が早いのですね。1960年前後に植えられた人工林は植えられてすでに6070年くらいの年月が経っていますので、スギもヒノキも伐期が来ています。それでも、安い外国産の材木に押されて、高値では売れないのです。様々な取り組みがなされていますが、日本の林業の低迷は、今もなお続いています。

スギやヒノキなどの針葉樹は、萌芽更新をしませんので、実が落ちて発芽するか、人間が苗木を育てて植えるかしなければ、再生することはありません。そこが人工林と雑木林の違いです。新たに人工林を育てようとしたら、樹木を伐採した後に苗木を植林するなどしなければなりません。それは大変な手間暇とお金と労力のかかる仕事です。昔は、村落の人々の家屋を作るのに必要な分しか植林しませんでしたので、里山林に占める人工林の面積はわずかでした。現在のように人工林が多くなったのは、今の時代だけの異常な現象と言ってよいと思います。

そのため、現在問題になっている花粉症は、拡大造林政策が原因と考えられます。もちろんそれだけではなく、都市化と共に花粉が風で飛び散りやすい乾燥した環境が増えたこと、そこにたくさんに人が住むようになったことも原因のひとつです。しかし、これほどスギやヒノキが増えてしまったのですから、花粉症の患者が増えるのは当然と言えばその通りです。春先、現在の山はスギの胞子がいっぱい付いて、スギの木全体が赤茶色になるほどです。胞子が飛び散る季節には、森に煙が昇るような光景を目にするほどです。スギ花粉の飛散が終わると、ヒノキ花粉の飛散が続きます。静岡県のある人は、自分が花粉症になったのは政府の拡大造林政策に原因があるとして裁判所に提訴したということを聞いたことがあります。その結果がどうなったか知りませんが、面白い裁判ですね。

 

高度経済成長は何をもたらしたか?

 

日本の高度経済成長は、1960年代から始まりました。その政策の基本は、鉄鋼や造船および石油化学など重化学工業を発展させ、それによってあらゆる産業分野の機械化を推進し、農作業にも農業機械を導入し、石油化学によって化学肥料を使うことで農業を近代化するとしました。重化学工業の発展にはエネルギーを石炭から石油に替えることが必要であり、農村の人口を都市の工場労働者として雇い入れ、閉山された炭鉱労働者も大都市の労働者として吸収されました。

この政策は、産業の大変革ばかりでなく、農村(里山)の生活も一変させました。エネルギー革命です。それまでは暖房はもっぱら薪に頼っていましたが、石油による暖房に切り替わりました。薪を山から伐採してくる必要がなくなりました。化学肥料が大量に普及するようになり、堆肥作りや山の落ち葉掻きをする必要がなくなりました。

里山の大きな変化は、炭焼きが途絶えたことです。薪や炭が必要なくなると、炭となる山の樹木の伐採が行われなくなります。薪として最も良質なのは、コナラやミズナラなどの落葉樹です。それらは、最も萌芽力が強く伐採してもすぐに回復する能力を持っていますので、暖温帯から冷温帯に多数生息するナラ林は著しく繁茂することになります。それらが伐採されなくなったので、現在の雑木林ではこれらの種の個体数が特に多くなっています。それは、萌芽力が強い種だからだと考えられます。

里山には人が入らなくなり、樹木の伐採や落ち葉掻きが行われなくなると、雑木林は腐栄養の土壌になって大きく繁茂するようになりました。それまでは約20年周期で樹木が伐採されて大きな樹木になることはなかったのに、森には大径木が育つようになりました。樹木の伐採が行われなくなり、そのまま放置されれば、樹木が繁茂し続け、そのうちに暖温帯地域では、森林の遷移のセオリー通りに常緑樹が優勢になってきます。それが数10年も続いてきたのです。

現在の雑木林の森は、おそらく日本の歴史始まって以来の著しく繁茂した森になっているのではないかと思います。森の遷移の観点からすれば、落葉樹林から常緑樹林へと移り変わりつつあるのが現状ではないかと思います。これは、ボクたちの住む地方だけの変化ではなく、西南日本全域に起こっている変化です。これまでに紹介してきた岡崎の山の森林は、ツブラジイやアラカシなどの高木が樹冠を占めつつあり、常緑化しつつある森の典型ではないかと思うのです。

 今後はどうなっていくのでしょうか?

常緑化の進行によって失われるのは、落葉樹の減少です。常緑樹の巨木の樹冠は太陽の光を遮り、陽樹である落葉樹の生育を著しく阻害します。落葉樹が育ちにくい環境になります。ということは、雑木林の山を彩るヤマザクラなどの各種の落葉樹が育ちにくくなることです。雑木林の春の花々の美しさが見られなくなり、秋の紅葉の季節にも落葉樹の紅葉・黄葉が見られなくなるということです。これは、ボクを含めて多くの日本人が自然の美しさを感じるその光景が見られなくなることを意味します。

ただでさえ、圧倒に多くなった人工林が山の大部分の面積を占め、雑木林が失われていく中で、同時に雑木林の常緑化が進行することによって、日本の自然の美しさも同時に失っていく将来に、ボクは危機感を感じています。このような傾向は、今後も続くでしょう。

それでは、100年後、200年後、500年後の日本の自然はどのようになるのか、推測してみることにしましょう。人工林がそのまま放置され続けられたとしますと、スギ・ヒノキの樹齢は一般的に500年くらいと言われています(屋久杉などは特例で2000年も)ので、そのくらいの年月が経つとほとんどが枯れ、再び落葉樹の雑木林になると考えられます。落葉樹林も300年もすれば立派な常緑樹林となり、遷移が完成しますので、縄文時代のような照葉樹林に代わるでしょう。

 これらの推定は、人間の手が加わらないで、現状が維持されるという条件での推論です。しかし、日本は火山国です。過去には大規模な火砕流を噴出する火山活動で九州全域の植物が死滅したこともありました。例えば阿蘇火山のカルデラが形成されたときの火砕流、あるいは鹿児島湾が形成された姶良カルデラ形成時の入戸火砕流は九州全域に及びましたし、北海道や東北のカルデラ火山が噴火した時も同様に、広範囲に及ぶ地域が火砕流に飲み込まれました。その地域では、すべての森が焼き払われ、同時に野生動物も死滅したことが知られています。そのようなことが起こる可能性は十分にあります。

 また、稲作の到来のように、外国から新しい様式の文化が突然やってきて、今までの生産体制が大規模に変革され、森林が消費され尽くされるようなことが起こる可能性は全くないとは言い切れません。あるいは、SFめいてきますが、異星人の到来の可能性はないでしょうか。


 いずれにせよ、人間が今後、どのように森に手を入れるようになるかが将来を決めることになるでしょう。しかし、少なくとも近い将来には、雑木林の美しさは失われていくことになることは確かなようです。悲しい推論ですね。

 思うに任せて、氷河時代から今日までの森林の変遷を駆け足で見てきました。気候変動に伴って森林が大きく変化してきたこと、農業革命によって森林の環境が大きく変わってきた歴史に驚きを感じます。これらの歴史を知って、ボク自身、今ある森の見方が大きく変わりました。

 これまでに長々と述べてきたことに、間違いもたくさんあると思います。それは素人に免じてお許しください。また、間違いを指摘していただけるとありがたいです。




 

森の歴史 その2

 

弥生時代の稲作農耕は大規模な自然改造だった!

 

 縄文時代から弥生時代への変化は、人間の営みの変化であると同時に自然環境の大規模な変化でもありました。コメを作るため平野の森林を伐採し、水を引き、開田することそのものが自然改造でした。山からの水を通す用水路を作り、水が得にくい地域ではため池が作られました。そうした用水路が平野に網の目のようにしかれ、いたるところに溜池が作られていきました。これらは、大規模な土木工事で、平野の自然は姿を変えていきました。こうして、人々の生活の中心が森林が生い茂る山から、平野へと移り変わったのです。

 弥生時代が始まってからこの稲作が日本の食糧生産の中心になり、なんと2000年を超える年月続いてきたのです。つい最近の高度経済成長の時代まで続いてきましたし、高度経済成長期に栄えたのは都市で、農村は稲作を中心とした農業が続いてきましたので、現代にまでそれが続いてと言ってよいと思います。この稲作農耕は自然環境の変化ばかりでなく、日本の経済や生活様式を大きく変えた、日本の全ての文化を包み込む変化の根源だったように思います。

 

「里山」の形成

 

用水路を作り、溜池を作るなどの土木工事は個々の農民では不可能でしたので、農民たちは共同で作業しました。そのためには田んぼの近くの山すそに集まって暮らすようになり、まとまった集落を作るようになりました。それは、土木工事ばかりでなく、用水の管理・補修などに細かい管理が求められました。水害対策なども必要になります。そのための寄り合いを頻繁に持つためにも、近くに住むことが必要だったのです。こうして稲作の行われた平野は、集落が点在した周囲に田んぼが広がり、溜池が各地に展開する田園風景へと変わりました。

しかし、その変化は平野だけの自然改造にとどまりませんでした。イネを作って豊かに実らせるためには、田んぼに肥料を入れなければなりません。そのため、田んぼの周辺の草を刈って堆肥を作って投入する、人糞や家畜の糞を腐熟させて投入しましたが、そればかりでなく、田んぼの周辺の山の落ち葉を堆肥に利用しました。「落ち葉掻き」と言って、稲作にとって欠かせない作業でした。それは農民にとっては重労働でした。さらには、脱穀した後に出るもみ殻を燃やして炭化させた燻炭を撒いてカリ肥料にしました。今でも収穫後の田んぼでは、燻炭を焼く煙が田んぼから立ち上がっている光景を見ます。

 日本の冬は寒いですので、暖房のために薪が必要でした。そのため、山に生えている樹木を伐採して薪にしました。縄文時代には山は常緑樹(照葉樹)に覆われていましたが、それらを伐採して薪にしました。集落周辺の山の斜面は、常緑樹が伐採された後は日の光が林床に届くようになり、陽樹である落葉樹が生えるようになりました。つまり、森の遷移が中断されたのです。落葉樹の大部分は根に養分を蓄えるので、伐採してもひこばえが出てすぐに枯れることはなく、ひこばえが大きく成長して再び森となるのです。現在、雑木林を歩くと、株立ちした樹木を多く見かけます。これは、落葉樹が伐採されてひこばえが成長した結果です。これを萌芽更新と言います。森林の再生です。こうして常緑樹から落葉樹の森が形成されました。これが、いわゆる雑木林です。

 農村集落では、周辺の雑木林の山で伐採地域を移動させながら定期的に皆伐し、萌芽更新による森林の回復を待って、大体20年くらいの周期で雑木林を伐採していました。時代が下がるとそれらの材木は薪ばかりでなく、炭焼きをして木炭を作り燃料にしました。昔は山の至る所に炭焼き場があり、炭焼き小屋がありました。江戸時代では、農家で炭を使うことはほとんどなく、炭を消費するのは都会の人々だったようです。しかしそれは、農家にとっては貴重な収入源でした。山の雑木林は、薪炭林だったのです。

農民は、冬の農閑期には山に薪(たきぎ)を拾いに行きました。強風が吹いた時などに落葉樹から小枝が大量に落ちます。実際に嵐の後に森に入ると小枝がたくさん落ちているのです。ですから、昔から強風が吹いているときは森には入らないことが言い伝えられています。その落ちた小枝を拾い集める作業をしたのです。日本の昔話の「おじいさんは山に芝刈りに」の世界です。囲炉裏(いろり)に小枝を燃やして煮炊きする光景を見たことがある人は多いと思います。先の述べた「落ち葉掻き」のように、農民は絶えず集落に隣接する山に入っていました。現代は、シカやイノシシが農作物を食い荒らす獣害が大問題になっていますが、昔は人が絶えず山に入っていましたので、野生の獣は人を畏れて里に近寄ることはほとんどなかったのです。

このように、薪や山の草が必要だったので、広い平野では山ではなくて平野でもかなり広い面積の森がありました。平地林です。昔は平野でも平地林が各所にありましたが、今は薪による暖房も肥料としての山の落ち葉をも必要がなくなって、平地林はほとんど姿を消しました。また、農家の屋根は茅葺(かやぶき)で、その材料を採るためにヨシやアシを河原や山にその場所を確保しました。それは萱場(かやば)と言います。村の周囲の山は河原には必ず萱場があったのです。

また、村には必ずと言ってよいほど、神社がありました。それは、五穀豊穣を家内安全を祈願し、一族の繁栄を祈る重要な施設でした。そこで村全体を見渡せる丘の上などに神社が建てられました。そこは、村を守ってくれる神様が住む場所として神聖なところでしたので、そこに生える樹木を伐採することはタブーでした。というわけで、里山林は落葉樹ばかりの疎林でしたが、神社の境内は常緑樹の森となっていたのです。いわゆる「鎮守の森」ですね。そこには」ツブラジイやアラカシ・クスノキなどの常緑の巨木が生い茂っていたのです。クスノキは、しばしばご神木と呼ばれ、寺社に巨木となっていることが多いですね。お寺の境内も神様が宿るところとして、樹木の伐採はほとんどなされませんでしたので、神社の森と同じでした。

 このように稲作と結びついて周辺の山まで利用され、雑木林も今のように著しく繁茂して見通しの悪い密林ではなく、遠くまで見通せるような明るい疎林であったのです。今とは全く違う雑木林であったのですね。昔の日本の農村は、この稲作農耕と結びついた自然に囲まれた世界を、「里山」と言ってきました。田んぼと集落が広がり、周囲の雑木林が一体となった風景が「里山」です。日本の原風景と言ってもよいでしょう。


 

日本文化は「里山文化」です!

 

突然ですが、ここで日本の和歌を引用します。

 

      「 奥山に 紅葉踏み分け鳴く鹿の 

声聞くときぞ 秋は悲しき 」

 

 上の和歌は有名な古今和歌集の歌ですね。平安時代の歌で、猿丸太夫の作です。ボクの大好きな和歌の一つです。平安時代も稲作の文化ですので、「里山」が人々の住んでいるところでした。この和歌の「奥山」というのは、「里山」と対になる言葉です。今述べたように、里山は絶えず人が入り込んでいる山でしたので、奥山というのはそれよりも奥にあって巨木になった森という意味で、鹿やイノシシが生息していた森という意味だと思います。「里山」には人を怖がって、鹿やイノシシは近ずくことはなかったのです。他の動物(サル、キツネ、タヌキなど)たちも同じです。ですから、現代の獣害の問題は、動物たちが悪いのではなく、人が山に入る機会が減ったために獣が元に戻ってきている結果です。

 「紅葉踏み分け」というのは、雑木林の晩秋に落葉した落ち葉をサクサクと音を立てて鹿が歩いている光景を表現したのでしょう。その音が聞こえてきそうですね。奥山ですので、立派な道があるわけでもなく、山の小道に落ちた色とりどりの美しい落ち葉を進む光景が目に浮かびます。雑木林の秋は、紅葉の美しさに輝く光景が思い浮かびますね。

鳴く鹿というのは、秋に発情期を迎えたオスの鹿は、メスを求めて鋭い声で鳴くのです。ボクは毎日のように山に入るので、秋になると鹿の鋭い求愛の鳴き声を聞きますが、その声は森中に響き渡るほど大きな声です。この詩人は、鳴く鹿の声を聴いて、都にいる妻や恋人を思う自分をなぞらえているのでしょう。「秋は悲しき」とは、夏が植物の活動の最盛期であり、秋は冬に向かって生命力が衰えていく時期です。侘しさを思わせる季節ですね。詩人の年齢は分かりませんが、人の命のはかなさを表現しているのではないかと思いますので、このように歌う詩人はかなりの年齢に達していたのではないかと推察します。

 以上のように、この詩人の歌は、里山の森の紅葉の美しさ、鹿の鳴き声などの情景描写の中に、詩人の悲しみの気持ちを投影した素晴らしい歌だと思います。和歌もそうですが、身近な自然を題材にすることが多いですね。その自然というのは、ほとんどが里山の自然です。里山の花鳥風月を題材にしています。そういう意味では、和歌は「里山文化」だと言ってよいと思います。

江戸時代に発展した俳句も同じです。とくに俳句は、「季語」を大切にしますが、季節に伴う自然・生活などを季語として俳句に取り入れるのですね。季語の大部分は里山の自然を反映しています。そういう意味では、和歌も俳句も「里山文化」と言ってよいでしょう。そういえば、日本画も里山文化と言えると思います。水墨画にしても、屏風絵にしても、掛け軸の絵にしても、浮世絵にしても、描かれる風物は花鳥風月を題材にしています。建築物も、欄間などの装飾に花鳥風月が描かれます。伝統的な農家の建築材料のほとんどは里山林を伐採して使いました。また、稲作に伴ってできる藁を使って畳を作り、草鞋(わらじ)や蓑(みの)、傘なども作りました。生活そのものが里山文化だったのですね。




森林の歴史、時代と共に森林も変わってきた!

 

森林の歴史とは?

 

ここでは、森の自然は現在と変わらない自然が続いていたのではなく、時代と共に変わったいくことの極く概略を述べます。詳しく述べたらきりがありませんので。

 

氷河期の気候と植生

  さて、世界的規模で見た時、地球には約200万年の間に10回の氷河時代と間氷期の繰り返し(約10万年周期)が起こったと言われます。ヨーロッパ大陸の北の方や北米大陸の北の方には、今の南極に匹敵する巨大な氷河(大陸氷床)が覆っていました。それほどに大規模な気候変動がありましたので、当然、森林も大規模に変動しました。地球全体が大規模な気候変動の影響を受けています。日本も例外ではありません。

2万年くらい前の氷期は、繰り返された最後の氷河期でありますので、最終氷期と言われます。その時代には、日本では平野にまで氷河が覆うことはありませんでしたが、日本全体が寒冷化して、高山には氷河が覆っていました。年平均気温が今より約9~10℃も低く、著しく寒冷であったのです。ですから、先の述べた森林限界は1500mも下がり、森林帯も全体に下がっていました。その時代は、平野の植物も寒冷に耐える樹種、トウヒやモミなどの針葉樹林、あるいはツンドラの草原が広がっていました。関東平野や濃尾平野がツンドラの草原だったなんて、信じられませんね。
  さらに驚くべきことは、海面が現在よりも120~140mくらい下がっていて、陸地がずっと広がっていたのです。氷河というのは氷ですので、それが陸上に巨大な堆積で堆積していたのですから、海の水が少なくなった結果、海面が低下したのです。120mの等深線をもとに陸地を描いてみますと、朝鮮半島語日本列島は、陸続きのようになりました(ただし狭い海峡は存在したようです)。日本は九州・四国は本州と陸続きでしたし、北海道とは狭い海峡がありましたが、日本列島とほぼ一続きになりました。東シナ海の大部分は陸地であり、中国の大河である揚子江も黄河も九州沖の東シナ海に注いでいました。海陸の分布が変わると、それに伴った陸上の気候も変わります。

 

新石器農耕文化の誕生と古代文明

その後、約1.5万年前頃から次第に気温が急激に上昇し、約1万年前にはほぼ現在のような気温状況になったと言われます(晩氷期)。それまでツンドラ草原であった地域に森林が拡大していきました。森林の中で鳥などを採るために弓矢が使われるようになった(矢じりがたくさん出土)時代です。

1万年前、人類の歴史では、旧石器時代から新石器時代に移り変わります。約1万年前に中近東地域(今のイスラエルを中心とした地域)で、小麦や大麦栽培を中心とする農耕文化が始まります(新石器農耕文化)。それまでの狩猟・採取の文化から農耕文化へと移り変わり、その結果人々が使う道具がそれまでの打製石器から磨製石器が作られるようになりました。そのような変化も、温暖化した気候の影響が原因でもあります。作物栽培が可能になるのは、気温が高くて湿潤な気候が必要です。農耕によって得られた食料は、それまでの不安定な狩猟・採取の時代には考えられないほど革命的な食糧革命をもたらしました。その農耕文化が、中近東地域から全世界に広まった行きました。

6000年くらい前から、いわゆる古代文明が起こります。古代エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、古代中国文明です。それは、農耕文明によってもたらされた富によって築かれたのです。いずれも、ナイル川、チグリス・ユウフラテス川、インダス川、黄河など大河のほとりに、ほぼ同時期に誕生し、強大な国家権力が誕生しました。なぜ6000年くらい前なのでしょうか? のちに述べるヒプシサーマル期の温暖化が影響しています。

 

日本の縄文時代は?

 約1万年前後には、日本では縄文時代が始まります。正確には1.2万年くらい前から縄文草創期が始まります。それまでの打製石器から土器が使われるように変化したのです。食べ物を貯蔵したり煮炊きしたりするのに土器を使ったのですね。これは、日本独特の文化で、ヨーロッパでの土器の使用はずっと後のことです。このころの西南日本の大部分は、湿潤温暖な気候条件のもとに暖温帯の森林におおわれるようになりました。森林の木の実を食料にしていましたので、土器が必要となったのです。縄文人は、ほとんど森の中に住んでいたのです。縄文早期から中期の遺跡の、青森県に発見された三内丸山遺跡では、クリの栽培がおこなわれていたことが明らかにされています。そこは日本列島の北の方ですので、おそらく冷温帯の落葉広葉樹林の森であったと推定されています。

その後、約6000年前をピークに今よりも平均気温が23℃ほど高くなり、温暖な時期が訪れます(縄文時代の前期から中期にかけての時代)。ヒプシサーマル期と呼ばれています。その当時は、常緑広葉樹林(照葉樹林)が広がっていました。縄文人は、常緑の巨木、ツブラジイの木の実(椎の実)を食料にしていたことが明らかにされています。

 

稲作農耕文化の到来(弥生時代)

 約2300年前頃に、大陸から稲作文化が到来し、いわゆる弥生時代が始まります。森林の中に暮らしていた人々は、稲作に必要な水が得られる平野の土地に開田し始めました。平野はそれまで照葉樹林の森に覆われていましたが、それらを伐採し、川から水を引いて田んぼを作っていったのです。平野の大部分が水田化したのにどのくらいの時間がかかったかは知りませんが、途方もない労力と時間をかけたと推定されます。とにかく、水のかかる平野の土地は、ほとんどの森林は伐採された開田されました。この開田によって定期的にコメが入手できるようになり、それまでの狩猟・採取に頼っていた人々の不安定な食生活は一変し、安定した食料が得られるようになったのです。それは革命的な生活の変化でした。そこに古代の権力が発生したのです。

 

 というわけで、縄文時代から弥生時代への変化は、自然の森林をも大規模に変化させました。人類の技術の進歩とともに、自然(森林)もおおきく姿を変えていったのです。

 さて、その後はどのように変化したのでしょうか? それは次回に述べることにしましょう。


日本の森林帯について

 

日本の森林帯

日本の国土は南北に細長く、高い山々もあり、それらの地理的(気候的)な要因で、森林の様相は地域によって大きく異なります。中部地方は、標高が高いので、標高の低いところから高い方へと気温が低下するために、森林の様相が垂直的に変化していきます。それを森林帯と言いますが、その名称はいろいろあって、統一した名前はありません。

生態学者の吉良竜夫さんが提唱した、植生の変化と気温との相関関係を表すための指標として、暖かさの指数および寒さの指数があります。あわせて温量指数とも呼ばれます。一般的に、植物の生育には月平均気温で摂氏5度以上が必要とされます。このことから、温帯における植生の分布には、それより高温になる期間とその温度の高さがどの程度になるかが大きく影響すると考えられるので、それを定量化することを試みたものです。大変優れた研究で、生態学の基本的知識とされています。

具体的には、ある地域の各月の平均気温を取り、月平均気温5度を基準として、各月の平均気温の5度との差を累積します。平均気温が5度より高い月の累積が暖かさの指数であり、5度より低い月の累積が寒さの指数です(5度以上と5度以下を相殺するのではなく、別々に累積する)。

吉良氏は、亜熱帯から高山まで、それぞれの樹種がどの高度に分布するかを調査し、植生が急激に変わる境界を境に植生帯を設定し、それと音量指数との関係を調べたのです。吉良氏に分類による植生帯別に音量指数を示すと下のようになります。

熱帯多雨林  暖かさの指数240以上

亜熱帯多雨林  暖かさの指数180240

照葉樹林  暖かさの指数18085かつ寒さの指数10(または15)以下

中間温帯林  暖かさの指数18085かつ寒さの指数10(または15)以上

落葉広葉樹林  暖かさの指数8545

針広混交林(北海道)  暖かさの指数6045

亜高山帯針葉樹林  暖かさの指数4515

高山帯  暖かさの指数15以下

なお、本来は降水量の大小も植生と大きな関係があるはずですが、日本ではどこでも充分な降水量があるため、条件の差としては意味をもたないと考えられます。

吉良氏の森林帯区分は、例えば落葉広葉樹林帯と中間温帯林を区別していますが、その区別は必要ないとする研究者もいて冷温帯とまとめてます。亜高山帯針葉樹林帯と針広混交林も、亜寒帯林と統一していることが多いようです。

中部山岳地帯を例にとると、標高500mよりも低い山地では、暖温帯あるいは丘陵帯などと呼ばれ、そこでの極相林はシイやカシ類などの常緑樹を主体とする森林(照葉樹林)です。岡崎や豊田市、豊橋や新城市の平野に隣接する丘陵地や山地は、この森林帯に属します。後に詳しく述べるように、この地域の里山林では、人手が入って樹木を伐採し続けてきましたので、落葉樹が多いです。

標高5001500mの地帯は、冷温帯あるいは山地帯と呼ばれ、ブナ林を中心とする落葉広葉樹林となります。深い谷を除く作手の高原状の地域は、標高500~700mでこの森林帯に属します。ブナ林はありませんが(文殊山にブナの巨木があるだけです)、コナラ・ヤマザクラを中心とする落葉樹が大半を占めます(後述)。1500m以上の山地になりますと、トウヒ・シラビソ・コメツガなどの針葉樹が卓越します。信州を旅した時、シラビソ高原に行きましたが、その山地に見られたシラビソやトウヒの針葉樹は美しかったです。落葉樹では、カラマツ・カエデ類が繁茂します。これを亜高山帯と言います。

以上は、森林の垂直方向の変化を見たものですが、南北の細長い日本列島の森林の水平変化にも同様の変化が見られます。北の方は寒いですので、それに見合った森林が繁茂します。北海道の北の方では、亜寒帯針葉樹林が繁茂します。大分前に北海道の礼文島に旅した時に、高山にしか見られない高山植物が標高の低い平地に存在しているのを見て驚いたことがあります。森林限界は、中部地方では標高2500mくらいですが、北に行くにつれた低下し、東北地方では1500mくらいになり、北海道の最北端では0mになっています。同様に他の森林帯も、その標高が北に行くにつれて低くなっていきます。

ボクが住んでいる旧作手村は、深い谷を除くとおよそ標高500700mですから、森林帯で言うと、冷温帯あるいは山地帯に相当し、落葉広葉樹林帯になります。標高の低い岡崎のような暖温帯林と比べると、岡崎でどこにでも見られる常緑樹の高木であるアラカシやツブラジイは、作手ではほとんど見られません。落葉樹でも、作手でたくさん見られるシロモジは、岡崎では見られません。岡崎で見られる落葉高木のアベマキは、作手では見たことがありません。森林帯の違いによって生息する植物の種類が異なるのですね。この辺をこの地域で詳しく調べてみると、面白いかもしれません

 

植物の種類があまり変わらない安定した状態のことを極相と言うことは、先に触れました。この極相としてあらわれてくる森林のグループを地図に描いてみますと、おおよそ一年間の平均気温(これを年平均気温と言います)の等しい線を結んだ線と一致します。それで、年平均気温の線を利用して日本の森林帯を4つに区分することができます。このように極相の違いで森林を区別したものを森林帯と言います。

 

森林帯区分

亜寒帯   6℃以下  北海道東北部

エゾマツ・トドマツの針葉樹林 カンバ類・ミズナラ・イヤタカエデ・カツラなどの落葉広葉樹とエゾマツ・トドマツが混じった森林

冷温帯林または温帯林 6℃から13℃  北海道西南部から東北の宮城県あたりまで

ただし、標高の高い所を入れると長野あたりまで

ブナ・ミズナラ・イタヤカエデ・トチノキ・カツラなどの他種類の落葉広葉樹が生えています

暖温帯林(温帯林)      13℃から21℃ 福島県から九州まで          シイ類やカシ類 

常緑広葉樹が極相となっている。

亜熱帯林                21℃以上           小笠原諸島や沖縄などの南西諸島

ガジマル・アコウ・ビロウ・木生(もくせい)シダ類が生えている 

 

 これを分布図として表したのが下の図です。亜熱帯林は、鹿児島県以南に分布します。図には示されていませんが、沖縄本島をはじめとする琉球列島も亜熱帯林が繁茂します。暖温帯林は、関東地方から西の西南日本に広く広く分布します。冷温帯林は、東北地方や北海道の西部に分布します。北海道北東部や山地の高いところには、亜寒帯林が分布します。

 それぞれの森林帯によって極相となる森林の様相も違ってきます。上に述べた森林帯の樹種が、その森林帯の極相林を構成します。

日本の森林帯
日本の森林帯


岡崎の中央総合公園のユリノキの花が美しい!

5月29日は、岡崎の中央総合公園を散歩しました。それは、そろそろユリノキの花が咲くころではないかと思ったからです。この公園の美術博物館の前のメインロードの街路樹にユリノキが植えられており、2年前に始めてユリノキの花を見て感激した思い出があり、それを見たかったのです。それまでは名前すら知りませんでした。友だちに写真を見せたら「初めて見た」という人が多かったです。あまりポピュラー花ではないのですね。その日は、うまい具合にその花に出会いました(下の写真)。黄色い花が、まるでチューリップの花のような姿をしていて、実に美しいのです。別名チューリップの木とも言いますが、モクレン科ユリノキ属の木本です。黄色い花弁の中央部にオレンジ色の斑点が付くのがきれいですね。こんなに美しい花なのですから、もっとポピュラーになってもいいと思うのですが、・・・。
中総のユリノキの花1 
中総のユリノキの花2 
 メインロードの法面に、赤紫色の草花が植えられていてとてもきれいでした。芝桜かなあ、と思って近寄って見たら、マツバギクでした。芝桜にしては花の時期がだいぶ遅いのでおかしいと思っていたのです。いま芝桜が咲いていて有名なところは、茶臼山周辺です。そこは標高1400mもあり、標高の低い岡崎では4月の桜の季節の少し後くらいですね。
マツバギクの法面 
マツバギクの花が 
  そこから恩賜園にある「石の庭園」まで行ってみました。岡崎は「石都」と言われるくらい古くからの石の産地でもあり、石工の街です。この庭園には、その石工たちが腕を競って作った石の彫刻や灯篭などが飾られています。下は、石を細工してそこに水を流して風流が石の庭園を造っている風景です。見事ですね。
水の庭園 
  庭園の中に、新芽が赤い低木を見つけました。下の写真のように、真っ赤な新芽がきれいです。葉の形や付き方から、ヤマモモではないかと思います。
ヤマモモの新芽がきれい 
  下は、テイカカズラの花です。カズラというようにツル性の植物で、他の樹木に絡まって花をいっぱい付けます。白い5枚の花弁がまるで星のように見え、きれいです。
テイカカズラの花が 






アオダモの花がきれい!文殊山のホソバシャクナゲ!

  先回、車で花を見に行ってそれらの写真を紹介しました。それから大分時間が経ってしまいましたが、まだたくさんの素晴らしい植物に出会いましたのでそれをご紹介します。
  下は、作手診療所から文殊山に登る林道の入り口に咲いていた、アオダモだろうと思います。アオダモは野球の木製バットの材料であることは知られていますが、こんなに美しい花が咲くなんて、ボクは知りませんでした。下にアップした写真を載せました。葉は、奇数羽状複葉で2,3対です。

アオダモでしょうか


 アオダモの白い花が
 
  すぐ隣に、タカノツメが生えていたのですが、葉の上に花芽が飛び出していました。白い花が咲くのですが、花芽も可愛いですね。葉は3出複葉で、三枚セットの葉がタカノツメのように見えることからその名がついたと言われます。秋には黄色く黄葉しきれいなのです。
タカノツメの花芽が 

  それから文殊山に行きました。文殊山に行ったのは、山頂にホソバシャクナゲがたくさん生えていて、5月初めが花をつけることだと知っていたからです。最盛期ではありませんが、咲いていました。この種は、愛知県の東の方と静岡県の西の方にしか生息しない地域固有種なのです。ですから絶滅危惧種でもあります。写真でお判りのように、普通のシャクナゲよりも葉が細長いのが特徴です。
  花の色も、白いもの、ピンクの物、真っ赤のものなどいろいろです。下の写真に見る通りです。一つ一つはツツジのような花なのですが、それがいくつも集まって花房を作っているのです。それが美しいですね。出合えてうれしかったです。

文殊山のホソバシャクナゲ 

ホソバシャクナゲ(赤) 

ホソバシャクナゲ(ピンク) 

  下は、そこに咲いていたコバノガマズミの花です。青空に映えてきれいでした。
コバノガマズミ満開 

  帰り道、コナラの木に下の写真のような丸いものがついていました。実のなる季節ではありませんし、調べてみたらナラメリンゴフシという虫えいでした。コナラにはハチの幼虫が寄生して、リンゴのような球を作るそうです。赤っぽい玉です。面白いですね。

ナラメリンゴフシだろう 




非正規雇用の若者に希望を!ホセ・ムヒカ前ウルグアイ大統領の来日!

非正規労働者  

   新聞報道を見て、驚いたことがあります。現在の日本の企業に雇用されたもののうち、非正規雇用が約4割を占めるそうです。これは驚くべき数字です。派遣法が施行される前は、約9割が正規雇用でしたが、こんなに非正規雇用が増えるなんて誰が予想したでしょうか。非正規雇用というのは、正規雇用の正社員ではないのです。いつでも首を切られることを前提にして雇われるということです。雇われる人の大部分は若い人々です。若者の就職難は大分前から問題にされてきましたが、就職できても非正規雇用なんて、若者に希望を失わせることです。
 ホームレス支援をしている方の、次のような趣旨の記事を読んだことがあります。20年ほど前、派遣法が成立する頃の国会前の反対デモで、ある日雇い労働者が「これが成立すれば、我々のような日雇い労働者が増える、景気が悪くなれば直ちに首を切れる、企業の安全弁が合法的に作られるのだ」と言っていたそうです。当時、記者はその意味が分からなかったのですが、それが現実となっている、というのです。我々も、その当時、派遣法は特殊技術を持つ人だけへの適用だと思っていて、その危険性を認識できずにいたことを率直に反省しなければなりません。
 非正規から正社員への道は閉ざされているわけではありませんが、それには猛烈な努力が必要であり、企業は労働者の努力を促すことによって利益を上げようとするのですね。正社員への昇格も、すべて自己責任だ、という論理です。これでは、若者が可哀想です。こんな法律を作ってしまったことが問題で、派遣法が諸悪の根源です。改めなければなりません。中日新聞に「新貧乏ものがたり」が連載されています。あまりにもひどい状況に、愕然とさせられています。
 このことと関連しますが、若者の貧困が社会問題になっています。高校や大学で奨学金をもらっていた人が返済できない人が多くなっていることが明らかになっています。非正規労働による貧困が原因です。そもそも、返済を義務付ける奨学金の制度が問題です。
 ボクは若いころ、旧ソビエト連邦を旅したことがあります。その時、ウズベク共和国の若い大学生から聞いた話に驚愕したことを鮮明に覚えています。その学生が言うには、「幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と授業料は一切無料です」というのです。その他、贅沢品でなければ食べ物は非常に安く、住宅も非常に安い、医療費は無料という具合です。日本とのあまりの格差に驚いたのです。社会主義の国は問題が山積していますが、社会主義の国にも素晴らしい一面があることを思い知らされたのでした。日本では、大学の授業料も高額になっており、親の負担がずっしり重いですね。ボク自身も大学で奨学金をもらっていましたが、国家公務員を10年務めた年に返還猶予となり、助かったことを思い出します。
 奨学金も、貸与型の制度をもっと拡充できないのでしょうか。予算がないので、と言いますが、戦闘機一機のお金を振り向ければよいのです。若者が希望をもって働けるようにするのは国の責任ではないでしょうか。政治の貧困です。
ムヒカさん来日記事 

  上の記事にあるように、全ウルグアイ大統領のホセ・ムヒカさんが来日されました。マスコミのトップ記事になりましたのでご存知の方が多いと思いますが、簡単に略歴をご紹介します。上の記事では細かい文字が読めませんので、ウィキペディアの記事で紹介します(多少簡略化)。

ムヒカの祖先はヨーロッパにあるバスク地方のビスカヤ・ムヒカスペイン語版出身であり、1840年にウルグアイに渡った。ムヒカは1935年にウルグアイの首都モンテビデオの貧困家庭に生まれた。家畜の世話や花売りなどで家計を助けながらも、1960年代に入って極左都市ゲリラ組織ツパマロスに加入、ゲリラ活動に従事する。モンテビデオ大学卒業後、ツパマロスと治安組織の抗争の激化、労働組合や職人組合の政治経済への反発といった時代のもと数々の襲撃、誘拐にたずさわる中で、ムヒカは6発の銃弾を受け、4度の逮捕(そのうち2回は脱獄)を経験する。1972年に逮捕された際には、軍事政権が終わるまで13年近く収監されており、軍事政権側の人質として扱われていた。ムヒカは出所後、ゲリラ仲間と左派政治団体を結成し1995年の下院議員選挙で初当選を果たす。2005年にウルグアイ東方共和国初の左派政権となる拡大戦線のタバレ・バスケス大統領の下で農牧水産相として初入閣。そして2009年度の大統領選挙戦で、元大統領である国民党のルイス・アルベルト・ラカジェ公認候補を決選投票で破り勝利した。

 すごい経歴ですね。まさにゲリラの闘士です。大臣になってからも、2009年に大統領に就任してからも、一貫して議員給与は大部分を慈善事業に寄付し、清貧な生活を守り、「世界一貧しい大統領」として知られています。知られるようになったきっかけは、大統領就任時の国連における演説でした。並みいる各国の首脳を前に、分かりやすい言葉で戦争政策や経済格差に対する政策、さらには環境政策を批判し、貧しくなることの意味を演説して、聴衆を感動させたことでした。ほくは、半年ほど前、友人にこの人を紹介する本を貸してもらい、その演説を読んで深く感動したことを覚えています。彼の語る言葉のうち、心に残った言葉を墨書しました。
先史時代に生きている 


  中でも、上の言葉は、名言ですね。「戦争放棄」とは、日本国憲法の言葉です。日本の憲法を高く評価して、この言葉が発せられたのですね。世界中で戦争が絶えない現状に対する怒りが込められているように思います。まさに「人類は先史時代に生きている」のですね。もちろん、安倍政権の「安保法」を批判する発言をしていることも記事になっています。最近、アメリカ合衆国とキューバが国交を回復しました。これまで戦争状態にあったアメリカとキューバとの関係が国交の回復までに至ったことは、最近の喜ばしい出来事ですね。実は、アメリカのオバマ大統領とキューバのカストロ前首相との仲介役を果たしたのは、このムヒカさんだったことを知りました。すごい政治家ですね。

貧乏とは (3) 
 上の言葉も、ムヒカさんでなければ語りえない言葉ですね。そう思うのは、現実の生活の中で、彼は貧乏を実践しているからです。でも彼は決して貧乏ではなく、リッチだと言います。少ししか持たない方が幸せだというのです。はっとさせられますね。「もっともっとと欲しがること」とは、今の日本人の生きざまを批判している言葉ではないかと思います。アベノミクスを考えると、まさの「もっともっと」経済を成長させること、もっと儲かることを政策目標にしています。国民に「もっともっとと」欲望を煽り立てるように仕向けているのではないかと思います。昔の日本には、「足るを知る」という精神があったと思うのですが、今の世の中は「金、金、金!」という世相です。恥ずかしいことですね。ムヒカさんの言葉を安倍首相に聞かせたいですね。

墨書の練習を始めました!

 手書きの手紙が書けなくなって!

    ボクは、半年ほど前から、習字を始めました。それは、パソコンで文章を書く生活を長年続けていると漢字が書けなくなって久しいからです。漢字ばかりでなく、ひらがな、カタカナもうまく書けません。とくに漢字は、一点、一画、跳ねる、はらう、止める、など漢字の墨書の作法を忘れ去っていたのです。それもさることながら、漢字そのものを忘れてしまい、手書きで手紙などの文章が書けなくなっていたのです。ごく基本的な漢字ですらうろ覚えで書けないのです。
 これではいけないと思い、毛筆で文字を書く練習をしてみようと思い立ちました。ペン書きでもいいのですが、やはり古来の日本の伝統である墨書を選びました。その動機は、手書きの手紙くらいはきれいな字で書きたいことと、ボクはキリスト者ですので、昔から聖書の気に入った言葉を筆で書いてみたいという夢を持っていまたからです。その他、短歌や俳句も素晴らしいので、それをも筆で書いてみたいと思っていました。ところがボクは、書道は全くの素人で、中学の時に学校で習っただけです。幸いにも、書道の道具は息子たちが中学生の時に使ったものが家に残っていましたので、それを使っています。
 もう一つの動機は、ボクらの礼拝を行っている集会所に掲示板があり、そこに安保法制反対のポスターなどを貼りだしていましたが、新たに掲示板を新設してボクらの礼拝の内容やボクらの主張・聖書の言葉などを掲示することになったのです。そこでそれらの言葉を毛筆で書いたら、道行く人々に見てもらえるかもしれない、と思って墨書を始めたのです。下が、その掲示板の写真です。

掲示板160306

  昨年の暮れから痛風などの病気が長引き、野外を散歩することができなくなったことから、1時間ほどの散歩の時間が空き、散歩から帰ってから撮影してきた植物たちを同定する時間、それだけでかなりの時間をつかうのですね。それからブログを書く時間(2時間くらい)がなくなりましたので、それらの時間がボクの墨書の練習時間になりました。1日に平均3時間くらいは練習しています。ヴァイオリン、フルート、歌など音楽の趣味に加えて墨書が加わったのですから、さらに忙しくなりました。

筆書きの基本から学ぶ!

 書きなぐっているうちに、もっと上手に書けるようになりたいと思うようになって、漢字の筆順や書き方の手本がほしくなりました。今は、それらの本を購入して練習しています。また、習字を習っている友人から手本をお借りして練習しています。当然、最初は楷書で一文字ずつ手本を見て書いていきます。難しいのは文字のバランスですね。文字全体の組み立て方、筆の運び、跳ね、はらい、止める、流すなどの基本ができていないとうまく書けないのです。
 もう一つ学んだことは、二文字以上の熟語や詩文などの文字列の場合は、全体のバランスが重要であるということです。初めのうちは単独の文字を書くことが精一杯でしたが、二文字になると上の文字と下の文字とのバランスがとても大事であることを知りました。数行の文字列であれば、行間のバランスや余白が重要であることを知り始めています。
 最初は楷書でかっちりと書くことが基本ですが、最近はそれではもの足らず、少し崩した文字、行書を手本を見て練習しています。行書の練習を始めてみて、一文字の筆の運び方が大事になることが分かってきました。文字を崩すには筆の動きを知っていないと崩すことができません。そのためには、筆順を十分に知っていないと筆を正しく動かすことができないのですね。もっと崩した文字、草書はあまりに難しくて、まだトライしていません。

 手本の他に、これまでにいろいろの文句を書いています。たくさんの聖書の中の名句、古典となった和歌や俳句、安保法制に反対するポスターの言葉、中日新聞に連載された「平和の俳句」のいくつか、中にはいろいろの人のキャッチコピーもあります。上の写真のポスターはそのごく一部です。これから少しずつそれらをこのブログに載せたいと思っています。



この暴挙を許さない!民主主義の破壊!戦争への道に突っ走るのか!

  話にならない!箸にも棒にも引っかからない!全く聞く耳を持たないのは、安倍首相の独裁政治だ!権力と多数によるおごりの政治だ!

 
戦後70年、曲がりなりにも平和主義を貫き、平和国家として立っていた日本は、この法律によって、戦争できる国に方向転換したのです。何の歯止めもなく、時の政権の判断一つで戦争をすることが可能となったのです。

  今朝の中日新聞を見たら、安倍政権の安保法制の政策は、3年前の2013年のまとめられた「アーミテイジ・ナイ報告書」の完全コピーであった、というのです。アーミテイジ氏は元国務副長官、ナイ氏は元国防副長官。その報告書には、以下、8項目の実行が要請されていたのです。
1)安全保障関連法を制定すること、
2)日米同盟の大きな障害となっている集団自衛権の行使を容認すること、
3)ホルムズ海峡の機雷掃海のために自衛隊を派遣すること、
4)南シナ海の警戒・監視活動を強化すること、
5)自衛隊による他国の軍隊にPKOの駆けつけ警護が必要であること、
6)特定秘密保護法を制定すること、
7)武器輸出三原則を撤廃すること、
8)原発は総括的安全保障に不可欠な要素だ、
というのです。3年前の出された報告書の内容を、安倍政権の政策としてそのまま採用してきたのです。まさに「完全コピー」です。原発再稼働の政策も安全保障に必要不可欠だというのです。

 ということは、アメリカの要請があればその通りになることを意味します。日本の主体性は保たれるのでしょうか。これまでの安倍政権の姿勢からは、アメリカの要請をはねつけるなどということは考えられないと思うのは、わたしだけでしょうか。秘密保護法はすでに成立しています。ますます真実が国民の目から隠されていくでしょう。武器輸出三原則はなくなりました。軍需産業が日本経済に大きく比重を占めるようになります。アメリカの産軍複合体を日本は真似していくことになります。この産軍複合体の力が強まって、アメリカは、戦争で武器を消費しなければ経済が保てない仕組みが出来上がっているのです。日本もそのようになっていくことは、恐ろしいことです。言いたいことは山ほどありますが、これくらいにしましょう。

  法律が成立してしまった以上、今後は、その法律の実行を阻止していくことが求められます。皆で知恵を出しましょう。

クルマバハグマに花が!ノブドウの実が色づいた!ツリフネソウがきれい!

   13日は、再び寺の入林道を歩きました。この場所でしか見たことがない、クルマバハグマの花の行く末を知りたかったからです。花が咲いていました。下の写真です。

クルマバハグマに花がいっぱい 

  花をアップしたのが下の写真ですが、いまいちピントが悪くて細部が写っていないのは残念でした。独特の花ですね。花弁が細長い棒状なのです。花の形は、コウヤボウキなどの近縁種を基本的には同じですね。

クルマバハグマの花が 

  道端に黒っぽいチョウが止まりました。図鑑で確認したら、クロヒカゲというジャノメチョウの仲間でした。ジャノメチョウにしては、表にはジャノメの模様がないのですね。

クロヒカゲが止まっていた  

  前にも報告したように、ある場所にノブドウが一面に覆っているところがあります。そのノブドウの実が色づき始めました。紫色や水色・茶色・赤色など色とりどりできれいです。

ノブドウの実が色づいた 

  下は、ヨウシュヤマゴボウです。今、各地に大きな葉をつけています。その実が下の写真のように黒くなりました。潰すと赤い液が出てきます。赤インクのようなので、英語では Ink Berry と言うそうです。

ヨウシュヤマゴボウの実が黒く 

  15日は、庄の沢湿地を訪れようと、かなり遠くに車を止めて歩いていきました。その間、いろいろの植物を見ました。この湿地に行きたいと思ったのは、中日新聞にこの湿地にミズギクが満開という記事がでたからです。
  ツルウメモドキがたくさんの実を付けていました。ほとんどがまだ緑色ですが、黄色くなった実が少し見られます。全てのみが黄色くなり、それがはじけるとオレンジ色の種が出てきますが、その頃がとても美しいのですね。飾り物としてマーケットで売っています。


ツルウメモドキの実が黄色に 

  下は、ノリウツギの花ですが、夏が終わると装飾花がピンク色になってくるのですね。真っ白の装飾花もきれいですが、ピンク色もいいものですね。

ノリウツギの装飾花がピンクに 

  道端の草むらに、下の写真のツリフネソウが群生していました。ツリフネソウの季節になったのですね。秋の草花という季節感があります。

ツリフネソウ現生し 

  色合いと言い、姿と言い、じつに美しい花ですね。心なごみます。

ツリフネソウが美しい 

  道端に小さな花が咲いていました。ヤブマメというマメ科のツル植物です。小さくて目立たないので見過ごしてしまいそうでした。

ヤブマメの花が 


  庄の沢湿地まではまだまだです。いろいろの植物に出会えて面白かったです。


coppice(雑木林)

森楽、flutevioline

Author:森楽、flutevioline
退職後、都会生活ばかりだったボクにとって田舎の自然豊かな里山の生活は、新しい発見の連続で楽しい! 自然の写真が満載です! また、こんな老い生き方があることを示したみたい!

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