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森の歴史 その2

 

弥生時代の稲作農耕は大規模な自然改造だった!

 

 縄文時代から弥生時代への変化は、人間の営みの変化であると同時に自然環境の大規模な変化でもありました。コメを作るため平野の森林を伐採し、水を引き、開田することそのものが自然改造でした。山からの水を通す用水路を作り、水が得にくい地域ではため池が作られました。そうした用水路が平野に網の目のようにしかれ、いたるところに溜池が作られていきました。これらは、大規模な土木工事で、平野の自然は姿を変えていきました。こうして、人々の生活の中心が森林が生い茂る山から、平野へと移り変わったのです。

 弥生時代が始まってからこの稲作が日本の食糧生産の中心になり、なんと2000年を超える年月続いてきたのです。つい最近の高度経済成長の時代まで続いてきましたし、高度経済成長期に栄えたのは都市で、農村は稲作を中心とした農業が続いてきましたので、現代にまでそれが続いてと言ってよいと思います。この稲作農耕は自然環境の変化ばかりでなく、日本の経済や生活様式を大きく変えた、日本の全ての文化を包み込む変化の根源だったように思います。

 

「里山」の形成

 

用水路を作り、溜池を作るなどの土木工事は個々の農民では不可能でしたので、農民たちは共同で作業しました。そのためには田んぼの近くの山すそに集まって暮らすようになり、まとまった集落を作るようになりました。それは、土木工事ばかりでなく、用水の管理・補修などに細かい管理が求められました。水害対策なども必要になります。そのための寄り合いを頻繁に持つためにも、近くに住むことが必要だったのです。こうして稲作の行われた平野は、集落が点在した周囲に田んぼが広がり、溜池が各地に展開する田園風景へと変わりました。

しかし、その変化は平野だけの自然改造にとどまりませんでした。イネを作って豊かに実らせるためには、田んぼに肥料を入れなければなりません。そのため、田んぼの周辺の草を刈って堆肥を作って投入する、人糞や家畜の糞を腐熟させて投入しましたが、そればかりでなく、田んぼの周辺の山の落ち葉を堆肥に利用しました。「落ち葉掻き」と言って、稲作にとって欠かせない作業でした。それは農民にとっては重労働でした。さらには、脱穀した後に出るもみ殻を燃やして炭化させた燻炭を撒いてカリ肥料にしました。今でも収穫後の田んぼでは、燻炭を焼く煙が田んぼから立ち上がっている光景を見ます。

 日本の冬は寒いですので、暖房のために薪が必要でした。そのため、山に生えている樹木を伐採して薪にしました。縄文時代には山は常緑樹(照葉樹)に覆われていましたが、それらを伐採して薪にしました。集落周辺の山の斜面は、常緑樹が伐採された後は日の光が林床に届くようになり、陽樹である落葉樹が生えるようになりました。つまり、森の遷移が中断されたのです。落葉樹の大部分は根に養分を蓄えるので、伐採してもひこばえが出てすぐに枯れることはなく、ひこばえが大きく成長して再び森となるのです。現在、雑木林を歩くと、株立ちした樹木を多く見かけます。これは、落葉樹が伐採されてひこばえが成長した結果です。これを萌芽更新と言います。森林の再生です。こうして常緑樹から落葉樹の森が形成されました。これが、いわゆる雑木林です。

 農村集落では、周辺の雑木林の山で伐採地域を移動させながら定期的に皆伐し、萌芽更新による森林の回復を待って、大体20年くらいの周期で雑木林を伐採していました。時代が下がるとそれらの材木は薪ばかりでなく、炭焼きをして木炭を作り燃料にしました。昔は山の至る所に炭焼き場があり、炭焼き小屋がありました。江戸時代では、農家で炭を使うことはほとんどなく、炭を消費するのは都会の人々だったようです。しかしそれは、農家にとっては貴重な収入源でした。山の雑木林は、薪炭林だったのです。

農民は、冬の農閑期には山に薪(たきぎ)を拾いに行きました。強風が吹いた時などに落葉樹から小枝が大量に落ちます。実際に嵐の後に森に入ると小枝がたくさん落ちているのです。ですから、昔から強風が吹いているときは森には入らないことが言い伝えられています。その落ちた小枝を拾い集める作業をしたのです。日本の昔話の「おじいさんは山に芝刈りに」の世界です。囲炉裏(いろり)に小枝を燃やして煮炊きする光景を見たことがある人は多いと思います。先の述べた「落ち葉掻き」のように、農民は絶えず集落に隣接する山に入っていました。現代は、シカやイノシシが農作物を食い荒らす獣害が大問題になっていますが、昔は人が絶えず山に入っていましたので、野生の獣は人を畏れて里に近寄ることはほとんどなかったのです。

このように、薪や山の草が必要だったので、広い平野では山ではなくて平野でもかなり広い面積の森がありました。平地林です。昔は平野でも平地林が各所にありましたが、今は薪による暖房も肥料としての山の落ち葉をも必要がなくなって、平地林はほとんど姿を消しました。また、農家の屋根は茅葺(かやぶき)で、その材料を採るためにヨシやアシを河原や山にその場所を確保しました。それは萱場(かやば)と言います。村の周囲の山は河原には必ず萱場があったのです。

また、村には必ずと言ってよいほど、神社がありました。それは、五穀豊穣を家内安全を祈願し、一族の繁栄を祈る重要な施設でした。そこで村全体を見渡せる丘の上などに神社が建てられました。そこは、村を守ってくれる神様が住む場所として神聖なところでしたので、そこに生える樹木を伐採することはタブーでした。というわけで、里山林は落葉樹ばかりの疎林でしたが、神社の境内は常緑樹の森となっていたのです。いわゆる「鎮守の森」ですね。そこには」ツブラジイやアラカシ・クスノキなどの常緑の巨木が生い茂っていたのです。クスノキは、しばしばご神木と呼ばれ、寺社に巨木となっていることが多いですね。お寺の境内も神様が宿るところとして、樹木の伐採はほとんどなされませんでしたので、神社の森と同じでした。

 このように稲作と結びついて周辺の山まで利用され、雑木林も今のように著しく繁茂して見通しの悪い密林ではなく、遠くまで見通せるような明るい疎林であったのです。今とは全く違う雑木林であったのですね。昔の日本の農村は、この稲作農耕と結びついた自然に囲まれた世界を、「里山」と言ってきました。田んぼと集落が広がり、周囲の雑木林が一体となった風景が「里山」です。日本の原風景と言ってもよいでしょう。


 

日本文化は「里山文化」です!

 

突然ですが、ここで日本の和歌を引用します。

 

      「 奥山に 紅葉踏み分け鳴く鹿の 

声聞くときぞ 秋は悲しき 」

 

 上の和歌は有名な古今和歌集の歌ですね。平安時代の歌で、猿丸太夫の作です。ボクの大好きな和歌の一つです。平安時代も稲作の文化ですので、「里山」が人々の住んでいるところでした。この和歌の「奥山」というのは、「里山」と対になる言葉です。今述べたように、里山は絶えず人が入り込んでいる山でしたので、奥山というのはそれよりも奥にあって巨木になった森という意味で、鹿やイノシシが生息していた森という意味だと思います。「里山」には人を怖がって、鹿やイノシシは近ずくことはなかったのです。他の動物(サル、キツネ、タヌキなど)たちも同じです。ですから、現代の獣害の問題は、動物たちが悪いのではなく、人が山に入る機会が減ったために獣が元に戻ってきている結果です。

 「紅葉踏み分け」というのは、雑木林の晩秋に落葉した落ち葉をサクサクと音を立てて鹿が歩いている光景を表現したのでしょう。その音が聞こえてきそうですね。奥山ですので、立派な道があるわけでもなく、山の小道に落ちた色とりどりの美しい落ち葉を進む光景が目に浮かびます。雑木林の秋は、紅葉の美しさに輝く光景が思い浮かびますね。

鳴く鹿というのは、秋に発情期を迎えたオスの鹿は、メスを求めて鋭い声で鳴くのです。ボクは毎日のように山に入るので、秋になると鹿の鋭い求愛の鳴き声を聞きますが、その声は森中に響き渡るほど大きな声です。この詩人は、鳴く鹿の声を聴いて、都にいる妻や恋人を思う自分をなぞらえているのでしょう。「秋は悲しき」とは、夏が植物の活動の最盛期であり、秋は冬に向かって生命力が衰えていく時期です。侘しさを思わせる季節ですね。詩人の年齢は分かりませんが、人の命のはかなさを表現しているのではないかと思いますので、このように歌う詩人はかなりの年齢に達していたのではないかと推察します。

 以上のように、この詩人の歌は、里山の森の紅葉の美しさ、鹿の鳴き声などの情景描写の中に、詩人の悲しみの気持ちを投影した素晴らしい歌だと思います。和歌もそうですが、身近な自然を題材にすることが多いですね。その自然というのは、ほとんどが里山の自然です。里山の花鳥風月を題材にしています。そういう意味では、和歌は「里山文化」だと言ってよいと思います。

江戸時代に発展した俳句も同じです。とくに俳句は、「季語」を大切にしますが、季節に伴う自然・生活などを季語として俳句に取り入れるのですね。季語の大部分は里山の自然を反映しています。そういう意味では、和歌も俳句も「里山文化」と言ってよいでしょう。そういえば、日本画も里山文化と言えると思います。水墨画にしても、屏風絵にしても、掛け軸の絵にしても、浮世絵にしても、描かれる風物は花鳥風月を題材にしています。建築物も、欄間などの装飾に花鳥風月が描かれます。伝統的な農家の建築材料のほとんどは里山林を伐採して使いました。また、稲作に伴ってできる藁を使って畳を作り、草鞋(わらじ)や蓑(みの)、傘なども作りました。生活そのものが里山文化だったのですね。




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森林の歴史、時代と共に森林も変わってきた!

 

森林の歴史とは?

 

ここでは、森の自然は現在と変わらない自然が続いていたのではなく、時代と共に変わったいくことの極く概略を述べます。詳しく述べたらきりがありませんので。

 

氷河期の気候と植生

  さて、世界的規模で見た時、地球には約200万年の間に10回の氷河時代と間氷期の繰り返し(約10万年周期)が起こったと言われます。ヨーロッパ大陸の北の方や北米大陸の北の方には、今の南極に匹敵する巨大な氷河(大陸氷床)が覆っていました。それほどに大規模な気候変動がありましたので、当然、森林も大規模に変動しました。地球全体が大規模な気候変動の影響を受けています。日本も例外ではありません。

2万年くらい前の氷期は、繰り返された最後の氷河期でありますので、最終氷期と言われます。その時代には、日本では平野にまで氷河が覆うことはありませんでしたが、日本全体が寒冷化して、高山には氷河が覆っていました。年平均気温が今より約9~10℃も低く、著しく寒冷であったのです。ですから、先の述べた森林限界は1500mも下がり、森林帯も全体に下がっていました。その時代は、平野の植物も寒冷に耐える樹種、トウヒやモミなどの針葉樹林、あるいはツンドラの草原が広がっていました。関東平野や濃尾平野がツンドラの草原だったなんて、信じられませんね。
  さらに驚くべきことは、海面が現在よりも120~140mくらい下がっていて、陸地がずっと広がっていたのです。氷河というのは氷ですので、それが陸上に巨大な堆積で堆積していたのですから、海の水が少なくなった結果、海面が低下したのです。120mの等深線をもとに陸地を描いてみますと、朝鮮半島語日本列島は、陸続きのようになりました(ただし狭い海峡は存在したようです)。日本は九州・四国は本州と陸続きでしたし、北海道とは狭い海峡がありましたが、日本列島とほぼ一続きになりました。東シナ海の大部分は陸地であり、中国の大河である揚子江も黄河も九州沖の東シナ海に注いでいました。海陸の分布が変わると、それに伴った陸上の気候も変わります。

 

新石器農耕文化の誕生と古代文明

その後、約1.5万年前頃から次第に気温が急激に上昇し、約1万年前にはほぼ現在のような気温状況になったと言われます(晩氷期)。それまでツンドラ草原であった地域に森林が拡大していきました。森林の中で鳥などを採るために弓矢が使われるようになった(矢じりがたくさん出土)時代です。

1万年前、人類の歴史では、旧石器時代から新石器時代に移り変わります。約1万年前に中近東地域(今のイスラエルを中心とした地域)で、小麦や大麦栽培を中心とする農耕文化が始まります(新石器農耕文化)。それまでの狩猟・採取の文化から農耕文化へと移り変わり、その結果人々が使う道具がそれまでの打製石器から磨製石器が作られるようになりました。そのような変化も、温暖化した気候の影響が原因でもあります。作物栽培が可能になるのは、気温が高くて湿潤な気候が必要です。農耕によって得られた食料は、それまでの不安定な狩猟・採取の時代には考えられないほど革命的な食糧革命をもたらしました。その農耕文化が、中近東地域から全世界に広まった行きました。

6000年くらい前から、いわゆる古代文明が起こります。古代エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、古代中国文明です。それは、農耕文明によってもたらされた富によって築かれたのです。いずれも、ナイル川、チグリス・ユウフラテス川、インダス川、黄河など大河のほとりに、ほぼ同時期に誕生し、強大な国家権力が誕生しました。なぜ6000年くらい前なのでしょうか? のちに述べるヒプシサーマル期の温暖化が影響しています。

 

日本の縄文時代は?

 約1万年前後には、日本では縄文時代が始まります。正確には1.2万年くらい前から縄文草創期が始まります。それまでの打製石器から土器が使われるように変化したのです。食べ物を貯蔵したり煮炊きしたりするのに土器を使ったのですね。これは、日本独特の文化で、ヨーロッパでの土器の使用はずっと後のことです。このころの西南日本の大部分は、湿潤温暖な気候条件のもとに暖温帯の森林におおわれるようになりました。森林の木の実を食料にしていましたので、土器が必要となったのです。縄文人は、ほとんど森の中に住んでいたのです。縄文早期から中期の遺跡の、青森県に発見された三内丸山遺跡では、クリの栽培がおこなわれていたことが明らかにされています。そこは日本列島の北の方ですので、おそらく冷温帯の落葉広葉樹林の森であったと推定されています。

その後、約6000年前をピークに今よりも平均気温が23℃ほど高くなり、温暖な時期が訪れます(縄文時代の前期から中期にかけての時代)。ヒプシサーマル期と呼ばれています。その当時は、常緑広葉樹林(照葉樹林)が広がっていました。縄文人は、常緑の巨木、ツブラジイの木の実(椎の実)を食料にしていたことが明らかにされています。

 

稲作農耕文化の到来(弥生時代)

 約2300年前頃に、大陸から稲作文化が到来し、いわゆる弥生時代が始まります。森林の中に暮らしていた人々は、稲作に必要な水が得られる平野の土地に開田し始めました。平野はそれまで照葉樹林の森に覆われていましたが、それらを伐採し、川から水を引いて田んぼを作っていったのです。平野の大部分が水田化したのにどのくらいの時間がかかったかは知りませんが、途方もない労力と時間をかけたと推定されます。とにかく、水のかかる平野の土地は、ほとんどの森林は伐採された開田されました。この開田によって定期的にコメが入手できるようになり、それまでの狩猟・採取に頼っていた人々の不安定な食生活は一変し、安定した食料が得られるようになったのです。それは革命的な生活の変化でした。そこに古代の権力が発生したのです。

 

 というわけで、縄文時代から弥生時代への変化は、自然の森林をも大規模に変化させました。人類の技術の進歩とともに、自然(森林)もおおきく姿を変えていったのです。

 さて、その後はどのように変化したのでしょうか? それは次回に述べることにしましょう。


日本の森林帯について

 

日本の森林帯

日本の国土は南北に細長く、高い山々もあり、それらの地理的(気候的)な要因で、森林の様相は地域によって大きく異なります。中部地方は、標高が高いので、標高の低いところから高い方へと気温が低下するために、森林の様相が垂直的に変化していきます。それを森林帯と言いますが、その名称はいろいろあって、統一した名前はありません。

生態学者の吉良竜夫さんが提唱した、植生の変化と気温との相関関係を表すための指標として、暖かさの指数および寒さの指数があります。あわせて温量指数とも呼ばれます。一般的に、植物の生育には月平均気温で摂氏5度以上が必要とされます。このことから、温帯における植生の分布には、それより高温になる期間とその温度の高さがどの程度になるかが大きく影響すると考えられるので、それを定量化することを試みたものです。大変優れた研究で、生態学の基本的知識とされています。

具体的には、ある地域の各月の平均気温を取り、月平均気温5度を基準として、各月の平均気温の5度との差を累積します。平均気温が5度より高い月の累積が暖かさの指数であり、5度より低い月の累積が寒さの指数です(5度以上と5度以下を相殺するのではなく、別々に累積する)。

吉良氏は、亜熱帯から高山まで、それぞれの樹種がどの高度に分布するかを調査し、植生が急激に変わる境界を境に植生帯を設定し、それと音量指数との関係を調べたのです。吉良氏に分類による植生帯別に音量指数を示すと下のようになります。

熱帯多雨林  暖かさの指数240以上

亜熱帯多雨林  暖かさの指数180240

照葉樹林  暖かさの指数18085かつ寒さの指数10(または15)以下

中間温帯林  暖かさの指数18085かつ寒さの指数10(または15)以上

落葉広葉樹林  暖かさの指数8545

針広混交林(北海道)  暖かさの指数6045

亜高山帯針葉樹林  暖かさの指数4515

高山帯  暖かさの指数15以下

なお、本来は降水量の大小も植生と大きな関係があるはずですが、日本ではどこでも充分な降水量があるため、条件の差としては意味をもたないと考えられます。

吉良氏の森林帯区分は、例えば落葉広葉樹林帯と中間温帯林を区別していますが、その区別は必要ないとする研究者もいて冷温帯とまとめてます。亜高山帯針葉樹林帯と針広混交林も、亜寒帯林と統一していることが多いようです。

中部山岳地帯を例にとると、標高500mよりも低い山地では、暖温帯あるいは丘陵帯などと呼ばれ、そこでの極相林はシイやカシ類などの常緑樹を主体とする森林(照葉樹林)です。岡崎や豊田市、豊橋や新城市の平野に隣接する丘陵地や山地は、この森林帯に属します。後に詳しく述べるように、この地域の里山林では、人手が入って樹木を伐採し続けてきましたので、落葉樹が多いです。

標高5001500mの地帯は、冷温帯あるいは山地帯と呼ばれ、ブナ林を中心とする落葉広葉樹林となります。深い谷を除く作手の高原状の地域は、標高500~700mでこの森林帯に属します。ブナ林はありませんが(文殊山にブナの巨木があるだけです)、コナラ・ヤマザクラを中心とする落葉樹が大半を占めます(後述)。1500m以上の山地になりますと、トウヒ・シラビソ・コメツガなどの針葉樹が卓越します。信州を旅した時、シラビソ高原に行きましたが、その山地に見られたシラビソやトウヒの針葉樹は美しかったです。落葉樹では、カラマツ・カエデ類が繁茂します。これを亜高山帯と言います。

以上は、森林の垂直方向の変化を見たものですが、南北の細長い日本列島の森林の水平変化にも同様の変化が見られます。北の方は寒いですので、それに見合った森林が繁茂します。北海道の北の方では、亜寒帯針葉樹林が繁茂します。大分前に北海道の礼文島に旅した時に、高山にしか見られない高山植物が標高の低い平地に存在しているのを見て驚いたことがあります。森林限界は、中部地方では標高2500mくらいですが、北に行くにつれた低下し、東北地方では1500mくらいになり、北海道の最北端では0mになっています。同様に他の森林帯も、その標高が北に行くにつれて低くなっていきます。

ボクが住んでいる旧作手村は、深い谷を除くとおよそ標高500700mですから、森林帯で言うと、冷温帯あるいは山地帯に相当し、落葉広葉樹林帯になります。標高の低い岡崎のような暖温帯林と比べると、岡崎でどこにでも見られる常緑樹の高木であるアラカシやツブラジイは、作手ではほとんど見られません。落葉樹でも、作手でたくさん見られるシロモジは、岡崎では見られません。岡崎で見られる落葉高木のアベマキは、作手では見たことがありません。森林帯の違いによって生息する植物の種類が異なるのですね。この辺をこの地域で詳しく調べてみると、面白いかもしれません

 

植物の種類があまり変わらない安定した状態のことを極相と言うことは、先に触れました。この極相としてあらわれてくる森林のグループを地図に描いてみますと、おおよそ一年間の平均気温(これを年平均気温と言います)の等しい線を結んだ線と一致します。それで、年平均気温の線を利用して日本の森林帯を4つに区分することができます。このように極相の違いで森林を区別したものを森林帯と言います。

 

森林帯区分

亜寒帯   6℃以下  北海道東北部

エゾマツ・トドマツの針葉樹林 カンバ類・ミズナラ・イヤタカエデ・カツラなどの落葉広葉樹とエゾマツ・トドマツが混じった森林

冷温帯林または温帯林 6℃から13℃  北海道西南部から東北の宮城県あたりまで

ただし、標高の高い所を入れると長野あたりまで

ブナ・ミズナラ・イタヤカエデ・トチノキ・カツラなどの他種類の落葉広葉樹が生えています

暖温帯林(温帯林)      13℃から21℃ 福島県から九州まで          シイ類やカシ類 

常緑広葉樹が極相となっている。

亜熱帯林                21℃以上           小笠原諸島や沖縄などの南西諸島

ガジマル・アコウ・ビロウ・木生(もくせい)シダ類が生えている 

 

 これを分布図として表したのが下の図です。亜熱帯林は、鹿児島県以南に分布します。図には示されていませんが、沖縄本島をはじめとする琉球列島も亜熱帯林が繁茂します。暖温帯林は、関東地方から西の西南日本に広く広く分布します。冷温帯林は、東北地方や北海道の西部に分布します。北海道北東部や山地の高いところには、亜寒帯林が分布します。

 それぞれの森林帯によって極相となる森林の様相も違ってきます。上に述べた森林帯の樹種が、その森林帯の極相林を構成します。

日本の森林帯
日本の森林帯


あけましておめでとうございます!今年はサザンカの花がいっぱい!

  新年、明けましておめでとうございます。

 引き続き、下手なブログを見てくださり、ありがとうございます。今年も、続けて作手の自然をご紹介したいと思います。ご教示をお願いいたします。


  さて、2週間ほど前、作手の家の近所を散歩した時の写真をお見せします。
 下は、2年ほど前から工事をしている林道の工事現場の様子を写したものです。大分先の方まで道路が作られましたが、遅々として工事が進んでいるとは言えません。かなり起伏のある土地ですので、工事が大変なのでしょう。手前は、菅沼川ですので、それに掛かる橋はまだ作られていません。工事の最後になるのでしょうか。

近所の工事現場
  今年は、サザンカの花が良くついています。下は、民家の庭先のサザンカですが、花がいっぱい付いています。わが庭のサザンカもいっぱい咲いています。
花がいっぱいのサザンカ

  下の写真の花は、何でしょうか。ヒメジオンかもしれません。ピンク色の花弁がきれいですね。
この花は何?
  道端にリンドウの花が咲いていました。こんな季節になっても、まだ花を咲かせるのですね。
まだリンドウが咲いていた
  下は、マンリョウです。赤い実が下の方について、きれいです。
マンリョウが赤い実を
  下の写真は、イチジクです。栽培しているのでしょうか。実が付いていますが、収穫はまだなのでしょうか。
イチジクの実が
  アオキに赤い実が付いています。アオキは常緑低木で、コナラなどの落葉広葉樹の下ばえとしてよく生えているのが見られます。人工林の下にも生えていますね。常緑ですので、光がそれほどなくても成長するのですね。赤い実がきれいです。
アオキに赤い実がついて
  下は、ヤブコウジです。地を這うように枝が伸び、そこに真っ赤な実が付きます。その赤い実がきれいなのですね。
ヤブコウジに赤い実が
  真っ赤な実がいっぱい付いたウメモドキがありました。実の数の多さにびっくりですね。
真っ赤な実がいっぱいの
  下は、ベニバナボロギクです。頭花の部分が赤いのが特徴で、それが白いのはダンドボロギクです。両方とも頭花が咲き終わると、白い穂を出して風に吹かれて飛び散り、種を散布します。
ベニバナボロギクの頭花




coppice(雑木林)

森楽、flutevioline

Author:森楽、flutevioline
退職後、都会生活ばかりだったボクにとって田舎の自然豊かな里山の生活は、新しい発見の連続で楽しい! 自然の写真が満載です! また、こんな老い生き方があることを示したみたい!

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