2017/02/02
時代と共に変わる自然と森林
古代には日本にも強大な権力が発生し、権力を象徴する巨大な建築物が作られるようになりました。平城京や平安京などの都が作られましたが、そこには豪華絢爛たる寺社が多数建築されました。それには、大量の建築材料が必要になります。京都奥地の山にヒノキの自生地がありますが、その付近の大径木はほとんどが寺社の建立のために伐採されつくされたと言われます。そこで、京都の近くに、吉野林業のような日本独自の造林技術が発達したと言います。戦国時代にも、巨大がお城を建てるのに大量の材木が必要になり、昔と同様の山林の伐採が行われました。
時代が変わって、江戸時代の山陰地方では、武器や農具を作る材料となる鉄の生産のために、鑪(たたら)製鉄が行われました。鉄分を含む風化した花崗岩を樋に流して比重差を利用して、鉄の選鉱を行うのです。その鉄分を溶鉱炉で溶かして刀剣や農具を作るのですが、そのための大量の木材を燃やして鉄を溶かしました。周囲の山の森林はことごとく伐採され、山が丸裸にされたと言います。鑪製鉄に伴い、山からの土砂の流出が激しくなり、鉱毒による作物被害が生じ、田んぼ土砂で埋まる被害が多発しました。そのため農民たちと製鉄業者たちとの争いが頻発し、一時は江戸訴訟にまで発展したことが知られています。今でいう公害裁判です。
同じ江戸時代の瀬戸内海沿岸では、塩の生産のために干拓地にたくさんの塩田が作られました。当時、塩は貴重品であったのです。干拓した低地に海水を入れ、藻に付着させた塩分を焼いて塩を取り出すのですね。焼いて製塩するために、周辺の山の木材が伐採され、燃料にされました。そのため山が丸裸になったと言います。当然、土砂災害が頻発して農民が苦しめられました。瀬戸内海沿岸での製塩の中心は赤穂藩でした。今でも新幹線で中国地方を旅すると、貧弱な森しか生育しない山が多いことに気づきます。現在にまで影響しているのです。一方、愛知県西尾近くの吉良藩も干拓地に塩田があり製塩が盛んにおこなわれ、矢作川の舟運を利用して信州などの山奥に塩を売って儲けていました。この地域の山も同様に、森林が伐採されたと思われます。赤穂浪士の討ち入りというのは、幕府の塩にかかる許認可の関する利権の両藩の争いがその原因なのです。
丸裸になった山には、自然に乾燥に強いアカマツが生えます。貧栄養の土壌でも、水分の少ないところでも育つアカマツは、荒れた山の代名詞のようになりました。荒れた山に広がる松林の松は、大部分がアカマツです。昔の村絵図や屏風絵などに描かれる山の風景画には、枝ぶりの良い松の絵が描かれていますが、それはかつての里山が荒れていたことを物語っています。そのような目で今の雑木林を見ると、松林が非常に多いことに気づきます。かつての荒れた松山の名残でしょう。
昔は日本でも松茸(マツタケ)がたくさん採れたと言います。今では高級食材で、我々庶民の口にはなかなか入らなくなりました。今は中国産が大部分と聞きます。それは、日本の山では「落ち葉掻き」が絶えず行われていて、山は貧栄養の土壌になっていたためと言われます。昔の山にはアカマツの森が広がっており、その土壌が貧栄養であったために松茸がたくさん生えていたのですね。
このようにある地方では、産業のために山の樹木が伐採されるという時代もありましたが、それは限られた時代と地方の話で、全国的に森林の様相が変わってしまうことはありませんでした。しかし、あの太平洋戦争とその戦後は違いました。
戦後の住宅難と拡大造林の時代
戦争中は、国を挙げての戦争政策のために、軍事のために優先的に石油・石炭などの燃料が使われたので、民間の燃料が不足し、人々は山の樹木を伐採して薪にしました。それは全国に及びました。そのため、山が丸裸にされました。都市住民は、盗むようにして近隣の山に入って薪(たきぎ)を集めたと言います。農民はそれを売って生計の足しにしたとも聞いています。
戦後は、大部分の家屋が空襲で焼かれたために住宅が不足し、人々は住宅難に陥りました。それを解決するために、時の政府・大蔵省は、スギやヒノキなどの建築材料を増産するために、多額の補助金を付けるという仕方で全国的に造林を推し進めました。その政策を「拡大造林」政策と言います。1950年代の後半から60年代に全国的に、雑木林を伐採して金のなるスギ・ヒノキが植えられていきました。寒冷な信州や北海道地方ではカラマツが植えられました。
貧しい農民は、将来高値で売れるスギ・ヒノキに夢を託して、造林していきました。今、急峻な山の斜面に見事な美林が広がっているのを見ますが、こんな急斜面に植林したことに驚きを感じます。それは当時の農民の献身的な努力の結果でした。比較的裕福な農民は、補助金よりも雑木林の価値のある樹木を採るために雑木林を残しました。ですから、貧しい村ほど造林が広く行われ、人工林の面積率が高くなっています。ボクらの住んでいる作手村は貧しかったので人工林の面積率が高く、80数%にもなります。それに対して、岡崎は比較的裕福な地域でしたので、今でも雑木林の面積が広くなっています。
これは、全国的に行われた政策ですので、大規模な自然環境、とくに森林環境の変化をもたらしました。従来の里山の雑木林はどんどん伐採されて少なくなり、スギ・ヒノキの常緑針葉樹の森が広がっていったのです。現在はどこの山を見ても、人工林が多くてその中に雑木林がわずかに残っているといった風景が広がっています。一時代前の里山の疎林とは比べものにならないほどの変化です。
日本の造林方法は、スギやヒノキの苗を約1~2m間隔に密植し、ほぼ10年ごとに間伐し、成熟した材木を建材として売り出すのです。ところが、70年代に入り輸入の自由化が始まり、安い外国産の材木が入るようになって、日本産の木材は売れなくなりました。間伐する手間をかけられずに人工林が放置されているのが現状です。間伐材も、丸管を使った足場が普及して、建築現場では間伐材の丸太が使われなくなったことも大きく影響しています。間伐がなされず放置された人工林は、林床が暗くなって下生えも生えず、土壌の栄養不足でひょろひょろの木になってしまい、丸太にしても使い物にならないのですね。そのような森は根が十分に張らないため、大雨の時に斜面が崩れた土砂災害を引き起こすのです。そのような放置された人工林が至る所に広がっていることが防災上も大きな問題になっています。
スギは植えてから40~50年くらい成長させて伐採し建材として販売するのが普通です。ヒノキは60~80年くらいが伐期だと言われています。スギの方が、ヒノキに比べて成長が早いのですね。1960年前後に植えられた人工林は植えられてすでに60~70年くらいの年月が経っていますので、スギもヒノキも伐期が来ています。それでも、安い外国産の材木に押されて、高値では売れないのです。様々な取り組みがなされていますが、日本の林業の低迷は、今もなお続いています。
スギやヒノキなどの針葉樹は、萌芽更新をしませんので、実が落ちて発芽するか、人間が苗木を育てて植えるかしなければ、再生することはありません。そこが人工林と雑木林の違いです。新たに人工林を育てようとしたら、樹木を伐採した後に苗木を植林するなどしなければなりません。それは大変な手間暇とお金と労力のかかる仕事です。昔は、村落の人々の家屋を作るのに必要な分しか植林しませんでしたので、里山林に占める人工林の面積はわずかでした。現在のように人工林が多くなったのは、今の時代だけの異常な現象と言ってよいと思います。
そのため、現在問題になっている花粉症は、拡大造林政策が原因と考えられます。もちろんそれだけではなく、都市化と共に花粉が風で飛び散りやすい乾燥した環境が増えたこと、そこにたくさんに人が住むようになったことも原因のひとつです。しかし、これほどスギやヒノキが増えてしまったのですから、花粉症の患者が増えるのは当然と言えばその通りです。春先、現在の山はスギの胞子がいっぱい付いて、スギの木全体が赤茶色になるほどです。胞子が飛び散る季節には、森に煙が昇るような光景を目にするほどです。スギ花粉の飛散が終わると、ヒノキ花粉の飛散が続きます。静岡県のある人は、自分が花粉症になったのは政府の拡大造林政策に原因があるとして裁判所に提訴したということを聞いたことがあります。その結果がどうなったか知りませんが、面白い裁判ですね。
高度経済成長は何をもたらしたか?
日本の高度経済成長は、1960年代から始まりました。その政策の基本は、鉄鋼や造船および石油化学など重化学工業を発展させ、それによってあらゆる産業分野の機械化を推進し、農作業にも農業機械を導入し、石油化学によって化学肥料を使うことで農業を近代化するとしました。重化学工業の発展にはエネルギーを石炭から石油に替えることが必要であり、農村の人口を都市の工場労働者として雇い入れ、閉山された炭鉱労働者も大都市の労働者として吸収されました。
この政策は、産業の大変革ばかりでなく、農村(里山)の生活も一変させました。エネルギー革命です。それまでは暖房はもっぱら薪に頼っていましたが、石油による暖房に切り替わりました。薪を山から伐採してくる必要がなくなりました。化学肥料が大量に普及するようになり、堆肥作りや山の落ち葉掻きをする必要がなくなりました。
里山の大きな変化は、炭焼きが途絶えたことです。薪や炭が必要なくなると、炭となる山の樹木の伐採が行われなくなります。薪として最も良質なのは、コナラやミズナラなどの落葉樹です。それらは、最も萌芽力が強く伐採してもすぐに回復する能力を持っていますので、暖温帯から冷温帯に多数生息するナラ林は著しく繁茂することになります。それらが伐採されなくなったので、現在の雑木林ではこれらの種の個体数が特に多くなっています。それは、萌芽力が強い種だからだと考えられます。
里山には人が入らなくなり、樹木の伐採や落ち葉掻きが行われなくなると、雑木林は腐栄養の土壌になって大きく繁茂するようになりました。それまでは約20年周期で樹木が伐採されて大きな樹木になることはなかったのに、森には大径木が育つようになりました。樹木の伐採が行われなくなり、そのまま放置されれば、樹木が繁茂し続け、そのうちに暖温帯地域では、森林の遷移のセオリー通りに常緑樹が優勢になってきます。それが数10年も続いてきたのです。
現在の雑木林の森は、おそらく日本の歴史始まって以来の著しく繁茂した森になっているのではないかと思います。森の遷移の観点からすれば、落葉樹林から常緑樹林へと移り変わりつつあるのが現状ではないかと思います。これは、ボクたちの住む地方だけの変化ではなく、西南日本全域に起こっている変化です。これまでに紹介してきた岡崎の山の森林は、ツブラジイやアラカシなどの高木が樹冠を占めつつあり、常緑化しつつある森の典型ではないかと思うのです。
今後はどうなっていくのでしょうか?
常緑化の進行によって失われるのは、落葉樹の減少です。常緑樹の巨木の樹冠は太陽の光を遮り、陽樹である落葉樹の生育を著しく阻害します。落葉樹が育ちにくい環境になります。ということは、雑木林の山を彩るヤマザクラなどの各種の落葉樹が育ちにくくなることです。雑木林の春の花々の美しさが見られなくなり、秋の紅葉の季節にも落葉樹の紅葉・黄葉が見られなくなるということです。これは、ボクを含めて多くの日本人が自然の美しさを感じるその光景が見られなくなることを意味します。
ただでさえ、圧倒に多くなった人工林が山の大部分の面積を占め、雑木林が失われていく中で、同時に雑木林の常緑化が進行することによって、日本の自然の美しさも同時に失っていく将来に、ボクは危機感を感じています。このような傾向は、今後も続くでしょう。
それでは、100年後、200年後、500年後の日本の自然はどのようになるのか、推測してみることにしましょう。人工林がそのまま放置され続けられたとしますと、スギ・ヒノキの樹齢は一般的に500年くらいと言われています(屋久杉などは特例で2000年も)ので、そのくらいの年月が経つとほとんどが枯れ、再び落葉樹の雑木林になると考えられます。落葉樹林も300年もすれば立派な常緑樹林となり、遷移が完成しますので、縄文時代のような照葉樹林に代わるでしょう。
これらの推定は、人間の手が加わらないで、現状が維持されるという条件での推論です。しかし、日本は火山国です。過去には大規模な火砕流を噴出する火山活動で九州全域の植物が死滅したこともありました。例えば阿蘇火山のカルデラが形成されたときの火砕流、あるいは鹿児島湾が形成された姶良カルデラ形成時の入戸火砕流は九州全域に及びましたし、北海道や東北のカルデラ火山が噴火した時も同様に、広範囲に及ぶ地域が火砕流に飲み込まれました。その地域では、すべての森が焼き払われ、同時に野生動物も死滅したことが知られています。そのようなことが起こる可能性は十分にあります。
また、稲作の到来のように、外国から新しい様式の文化が突然やってきて、今までの生産体制が大規模に変革され、森林が消費され尽くされるようなことが起こる可能性は全くないとは言い切れません。あるいは、SFめいてきますが、異星人の到来の可能性はないでしょうか。
いずれにせよ、人間が今後、どのように森に手を入れるようになるかが将来を決めることになるでしょう。しかし、少なくとも近い将来には、雑木林の美しさは失われていくことになることは確かなようです。悲しい推論ですね。
思うに任せて、氷河時代から今日までの森林の変遷を駆け足で見てきました。気候変動に伴って森林が大きく変化してきたこと、農業革命によって森林の環境が大きく変わってきた歴史に驚きを感じます。これらの歴史を知って、ボク自身、今ある森の見方が大きく変わりました。
これまでに長々と述べてきたことに、間違いもたくさんあると思います。それは素人に免じてお許しください。また、間違いを指摘していただけるとありがたいです。